山陽防腐木材株式会社(1961) 創業40年史より
田中 好一
(たなか こういち)
このサイトは、戦後の広島県の復興・発展に大きな役割を果たした田中好一 (1894-1981) について解説します。
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概要
田中好一(1894年1月20日--1981年7月9日)は、明治から昭和にかけての広島県の実業家・社会事業家。昭和初期に山陽木材防腐株式会社(現ザイエンス)を設立し事業を拡大した。戦後は二葉会の世話人を務めるなど広島経済の復興につとめ、修道学園理事長として修道中学校・高等学校の復興および広島修道大学の設立・運営を行った。田中真一郎(ザイエンス社長 福屋社長)、田中真造(広島大学名誉教授、西洋史 元広島商科大学教授→京都教育大学→広島大学)は子。
栄典
1952年(昭和27年)紺綬褒章(司法)
1958年(昭和33年)紺綬褒章(更生)
1960年(昭和35年)藍綬褒章(通産関係)
1963年(昭和38年)藍綬褒章(警察関係)
1965年(昭和40年)勲三等旭日中綬章(警察関係)
1973年(昭和48年)勲二等瑞宝章(私学関係)
1974年(昭和49年)広島名誉市民
参考文献
広島修道大学25年史(p349)
経歴
1894年1月20日生(明治27年)、材木商田中真三の長男として、広島市天満町に生まれる。1911年広島県立商業学校を卒業、田中材木店を継ぐ。1931年(昭和6年)、山陽木材防腐株式会社(現ザイエンス)を設立し、社長に就任する。1941年広島商工会議所会頭に選任される。1945年8月6日観音町の自宅で被爆し、倒壊した家屋の下敷きとなって負傷するが一命を取り留める。1947年修道学園理事長に就任する。1953年 ラジオ中国(現中国放送)で、地元経済人の協力による公会堂建設を呼びかけ、二葉会を結成し、以後二葉会の世話人となる。1955年山陽木材防腐株式会社会長、1974年広島名誉市民、 1981年死去(享年87歳)。
山陽木材防腐社長として
山陽木材防腐株式会社の主な事業は、防腐加工した電柱および鉄道枕木の生産である。この会社は、山陽合名会社の木材防腐部門母体としており、これは田中の従兄弟である田中健次郎(二代目)が始めたものである。健次郎の急逝後、木材防腐部門だけを分離独立させ山陽木材防腐株式会社を設立したのは、健次郎(二代目)の母ヨネである。しかし、中心となる幹部が病に倒れるなどした為、ヨネは東亜防腐木材(社長藤田一郎)へ買収を持ちかけていた。藤田一郎は藤田組が発展期に向かう時期であったこと、東亜防腐の経営も伸び悩んでいたことなどから、好一の父田中真三に相談し、経営権を好一に移譲することを決めた。好一は田中材木店が繁忙であったこから、再三これを断ったが、伯母であるヨネの事業を助ける為に専務として経営に参画していたこともあり、将来、東亜防腐木材と協調・提携をとることを前提として提案を受諾した。後に東亜木材防腐は、山陽木材防腐に友好的に吸収合併される。
参考文献
山陽防腐木材株式会社(1961) 創業40年史
原爆ドーム
田中は第二次世界大戦中、戦時の木材統制機関であった広島県地方木材株式会社の社長であった。同社は、戦争末期原爆ドームの大半を使用しており、8月6日の原爆投下によって死者を出した。田中はこうした忌まわしい思い出が脳裏に離れないと、原爆ドームの保存について消極的であった。しかし、ヴィルヘルム皇帝記念教会を訪れ、深い感銘をうけ、以後ドーム保存に積極的になり、広島市長の協力要請に対し、二葉会を中心とした十二社で寄付の申込を決めた。また、原爆ドーム永久保存が決まったのを機に、1967(昭和42)年8月6日には、原爆ドーム周辺に広島県地方木材統制株式会社の職員慰霊碑が立てられたが、田中はその発起人となった。
原爆ドーム前の慰霊碑
参考文献
田中好一(1967) 「この遺産」in 広島市 編・刊(1967) ドームは呼びかける 原爆ドーム保存記念誌 p69
修道学園理事長
1947年、修道学園理事であった飯田信雄からの再三にわたる要請を受諾し、1947年5月に修道学園理事長に就任する。当初「自分自身適任とは思わぬが、とりあえず一期だけ務めさせてもらおう」と引き受けたが、以後30余年にわたって理事長を続け、修道高等学・中学校の復興を行うとともに、1952年に修道短期大学、1960年に広島商科大学(広島修道大学)の設立などを行った。学園の復興と建設のための地元金融機関からの資金借り入れはすべて田中と飯田の個人の保証で責任を負った(大崎[2] 飯田[4])。
田中は教員との意見交換にも率直に応じ(三十年史p.160)、民主的な学園経営をめざし、教学と経営の分離を一貫して主張し実践した(五十年史[4]p161 大崎[2])。第四代学長の古林喜楽は、学長就任の要請のために田中が神戸まで出向いた経緯を語っている(このときは断ったが、その後教授会の投票を踏まえて学長に就任している(古林[3])。また、第七代学長の立川昭二郎は、「理事会は二葉会の主要メンバーで構成されていて、経営は理事会、教育は教授会という方針で、大学の人事や研究面に口出しすることはほとんどありませんでした」と述べている([1])。
広島修道大学の胸像
参考文献
[1]広島修道大学 (2008) Truth 2008 spring(広島修道大学広報誌)
[2]大崎不二夫 (1983) 大学時報 32 (169)(183) p114-115 「大学を興した人々39 広島修道大学と田中好一」
[3]古林喜楽(1975)「思い出の記」 in 広島修道大学同窓会 「道を修める」
[4]広島修道大学五十年史
二葉会
田中は、1953年の正月、ラジオ中国(現中国放送)の浜井信三市長および山口文吾広島ガス社長との「初夢を語る」座談会で「経済人が協力して公会堂をつくろう。ふるさちにいま一番必要なのは文化の香りだ」と呼びかける(「朝日新聞」夕刊1981年6月1日、 浜井信三)。そのよびかけに東洋工業(現マツダ)社長の松田恒次が応じ、山陽木材防腐、東洋工業、中国電力(社長 島田兵蔵)、広島銀行頭取(橋本龍一)、広島相互銀行(現もみじ銀行)(社長森本亨)、中国新聞(社長 山本実)一、広島電鉄、広島ガス、藤田組(現フジタ)、中国醸造の10社(後に中国電気工事が加わわり11社となる)によって結成されたのが二葉会である。二葉会は、広島公会堂、広島市民球場、広島バスセンター、県立体育館、広島空港ビル、県立美術館、屋内プール、青少年センターなどの建設資金の負担において大きな役割を果たした。田中は「政策問題は同友会や商工会議所で考えればよい。」と、二葉会は寄付団体だといういう姿勢を保とうとした([2])。また、二葉会を「廃墟の中で芽生えた協調性」と評している(3)。
参考文献
[1]濱井信三(1967) 原爆市長 ヒロシマとともに二十年 朝日新聞社 (p227-229)
[2]中国新聞社(1974) 社長さん ひろしま経済 人とあゆみ
[3]「朝日新聞」夕刊1981年6月1日
交友関係
池田勇人の相談相手であった。県知事選挙において、自由党の対立候補を推した池田に対して、大原博夫を勧め続けたのは田中である。([2])。この際、池田から、田中自身の県知事選挙への出馬を要請されている。([1])
後に池田は大原と協力関係を結び、池田、大原、田中は、ともに日本鋼管福山誘致などに主導的な役割を果たした。田中は、池田の総裁選の支援などをした。
参考文献
[1]中国新聞社(1974) 社長さん ひろしま経済 人とあゆみ
[2]田中好一(1971)「崇高な県政への情熱」in 大原博夫追想録編集委員会「大原博夫伝 」